このページでは、奈良の街における鹿と人との共生について解説します。
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なぜ奈良の町中には鹿がいるのか
きっかけは奈良時代
奈良と鹿の関係は、今から約1250年前にさかのぼります。
当時の日本は奈良時代。710年に奈良・平城京に都が移り、奈良が日本の首都だった時代です。
768年、藤原永手(藤原一族の大臣)が藤原氏の氏神である武甕槌命(タケミカヅチノオ)を茨城県の鹿島神宮から勧請し、現在の地に春日大社を造営しました。
鹿島神宮に祀られている神様である武甕槌命(タケミカヅチノオ)は、なんと1年をかけて白い神鹿に乗って茨城県から奈良県まで移動したとされています。
その際、白い神鹿以外にもたくさんの鹿が茨城県から奈良県に来ました。
奈良にはそれ以前にも野生の鹿が生息していましたが、768年の春日大社創建以降は鹿=神の使い、ということで藤原氏により手厚く保護されました。
奈良時代以降も続く鹿保護施策
また、奈良時代以降も鹿の保護は続き、室町時代には奈良のシカを殺した者は死刑になりました。その後安土桃山時代にも、織田信長が鹿殺しの犯人を捕まえた者に賞金を与えるなどして奈良の鹿保護施策は江戸時代まで続きました。
鹿にとっては受難の明治時代
しかし、明治時代に神仏分離が政策となり廃仏毀釈が進み、当時鹿の保護に力を入れていた興福寺が一時廃寺となってしまいました。
すると、今まで「鹿を大事にしろ!」と圧迫されていた反動で、シカ狩りが横行するようになりました。
1873年(明治6年)には奈良の鹿の数が38頭にまで激減したことが記録されています。
その後、鹿の絶滅を回避するために奈良県と春日大社により神鹿(しんろく、奈良の鹿のこと)の保護政策が始まりました。
具体的には鹿の殺生を禁止する区域を定め、その地域内の鹿は保護されることになりました。
戦争をきっかけに再び減る鹿
このようにして一時は頭数を増やした奈良の鹿でしたが、戦時中は食糧不足から鹿の密猟が増え、1945年(昭和20年)時点での奈良の鹿の頭数は79頭と記録されています。
戦後以降
戦後は再び鹿がきちんと保護されるようになりましたが、シカが増えたことにより農作物への被害も再発してしまい、一時は「鹿害(ろくがい)訴訟」と して裁判にまで発展しましたが、1985年に和解が成立しました。
現在
2017年(平成29年)の調査で奈良の鹿の頭数は1,498頭。
絶滅寸前だった明治時代、戦時中から比べるとずいぶん増えました。
現在は「鹿害」を減らしつつ「観光資源としての鹿」を保護するべく、国や奈良の鹿愛護会などが一生懸命鹿と人間との共生を模索しているのが奈良の街なのです。
奈良の鹿は国の天然記念物
「奈良のシカ」は1957年(昭和32年)に国の天然記念物に指定されました。
天然記念物であるため、文化財保護法により捕獲が規制されています。
ただし、奈良公園付近以外の地区では、許可を得れば鹿を捕獲することが1985年(昭和60年)から認められています。
許可を得れば捕獲が認められるとはいえ、神の使いとされる鹿を捕獲することへの抵抗感などから、2017年までは1頭も捕獲実績はありませんでした。
しかし2017年、あまりに鹿が増えすぎて農作物への被害が深刻化していることを理由に、奈良県は7月31日~11月14日までの間、鹿を捕獲して頭数を管理することにしました。
猟銃などは使わず、箱罠などを使って生きたまま捕獲し、捕獲した鹿は生態を調べるために解剖されるとのことです。
鹿と人間がよりよく共生するためには、増えすぎた鹿の頭数調整も避けては通れない道ですね。
鹿の保護に携わる団体
奈良の鹿は野生の鹿です。
野生ということは、飼育者や管理者は居らず、誰の所有物でもないということです。
しかし本来野山に住む野生動物が人間と共に生きていくためには、人間が鹿のサポートをする必要があります。
このために奈良にはいくつかの組織が存在します。
奈良の鹿愛護会
一般社団法人 奈良の鹿愛護会は、「鹿の角切り」「鹿寄せ」といった鹿に関する伝統行事の継承をはじめ、
- 鹿の生息地のパトロール
- 負傷した鹿や病気の鹿の救助、治療
- 妊娠したメス鹿の保護
- 鹿の頭数調査
- 死亡した鹿の解剖
- 鹿に関連した教育、広報
など様々な活動を行い、シカと人間の共存を推進しています。
鹿サポーターズクラブ
また、シカの数が増加して奈良の鹿愛護会だけでは活動が限界となったことから、ボランティア団体「鹿サポーターズクラブ」も2009年に発足しました。
鹿サポーターズクラブは、奈良の鹿愛護会の指導の下、奈良公園の鹿パトロールや頭数調査などの支援活動をボランティアで行っています。