奈良公園は、都市の中にあって野生の鹿がたくさん生活している世界でも珍しい公園です。奈良では、人と鹿が共存しています。そんな奈良公園の鹿の歴史についてご紹介しましょう。
奈良の鹿のいわれ
春日大社は、奈良市街地の東の端、御蓋山(みかさやま)の麓に、今から約1300年前に、平城京守護のために、鹿島神宮、香取神宮、枚岡神社から神様を迎え、創祀されました。
なかでも、武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、他の神様に先立って、鹿島神宮より白い鹿に乗って来られたと伝えられています。この神様が乗って来られた白い鹿にちなみ、奈良の鹿は、「神様のお使い」「神鹿(しんろく)」と言われ、人々から大切にされています。
平安時代~江戸時代
平安時代には都の貴族たちの春日詣でが盛んになり、神様の使いである鹿に出会うと「いいことが起きる」と喜んだと言われていました。
室町時代から江戸時代初めにかけては、神鹿を殺してしまったら、死罪に処せられるなど、人より鹿という厳しい考えでした。
それについての悲しいエピソードがあります。
江戸時代綱吉将軍のころ、三作という少年が習字の練習をしていた時、鹿がやってきて、草紙をくわえていこうとしました。鹿を追い払おうと文鎮を投げたところ、鹿に当たり、鹿は死んでしまいました。その当時は、神鹿を殺したら死罪でしたので、少年と言えど死罪は免れず、死んだ鹿と一緒に生き埋めにされてしまいました。
菩提院には、三作の母親が息子の死を嘆き悲しんで建てた塚があります。
また、違うエピソードもあります。
奈良の人々は早起きだというのです。それは、朝起きて、自分の家の前に死んだ鹿が横たわっていたら、お咎めがあるので、隣の人より早く起きて、もし家の前に鹿の死体があれば、隣の家の前まで動かすため、隣の家より早く起きなければならないからです。
しかし、時代が進み、神鹿を誤って殺してしまった場合でも死罪になるということはなくなっていきました。
明治時代~現在まで
現在では、奈良公園周辺に約1200頭の鹿が生息していますが、明治維新の混乱で明治時代の初めと、食糧不足による鹿の密猟で終戦直後、鹿の数が激減しました。
また、周辺の農作物への鹿の食害が、近隣の農家の方から訴えられるようにもなるなど、鹿に関する問題も少なからずあります。そのため、奈良県や奈良市が中心となって鹿の保護と、人と鹿の共存に向けたたゆまぬ努力がなされています。
1957年、文化財保護法によって、奈良の鹿は天然記念物の指定を受け、正式には、「奈良のシカ」と呼ばれるようになりました。
おわりに
奈良公園の鹿は、外国人観光客の人気の的です。世界広しと言えど、都市の中に、1000頭余の鹿が自由に歩き回り、人とふれあっているところはありません。
しかし、鹿の交通事故や鹿による農作物への食害、鹿による観光客のケガ等様々な問題も出てきています。鹿を保護する一方で、今の時代にふさわしい人と鹿の共存を考え続けていかなければならないようです。